日本における自由保守主義の再定義

「そのとおり。その擁護の証拠を示すのはときに十分ではない。他の可能性を否定するための証拠をも探りださなければならない」。かくて、バイオニック・モスキートは中世日本の可能性を却下した。いわく[1]

わたしは中世ヨーロッパ史のささやかな読書を行った人にとって馴染み深いように思われる多くの断片を見つけるが、(NAPに接近する法という観点でいえば、)そこにある脈絡はすべて非常に皮相的に思われる――フェイクということでの皮相的だけではなく、真の基盤がないということでの皮相的のことである。

個人の尊厳の感覚はなく、分権化した法の感覚もなかった――(当該期間の後半部分へ向かい)分権化した権力にすぎなかった。自然法の概念、神の似姿に作られた人、誓い、最も古い慣習と伝統に従う法、政治的権力の抑制たる宗教もなかった。

長いストーリーを短くすれば、この(相対的に短命ながらの)期間の究極的に終わりへ近づいた分権化の理由を、わたしは集権化した権力の衰退以外には見出さなかった。この期間の日本の場合には中世ヨーロッパの分権化の諸基盤のいずれも明晰に存在しはしなかった。この分権化の底にはそれを維持するものが何もなかった。

ここには我々の時代にとって良い教訓があるかもしれない。かなりの見込みにおいて、我々は分権化の期間に入っている――長続きする基盤いずれにも基づかず、衰退する権力の基盤に基づきながら。

覚えておくといい。日本はこの短命な分権化の後、内戦に陥った。しかる後、全身全霊で集権化に立ち戻った。

これはジョン・H・ホールとジェフリー・P・マス『中世日本―制度史論文集』[2]の書評であり、珍しく結論を省いていた。

彼にこれを書くよう動機付けたものの一つはわたしのメールであった。彼のブログの翻訳[3]許可を彼に得る際、わたしは彼の中世日欧文化の肯定的類比に同意した。しかしわたしは間違っていた。わたしの(誤)評価を受けて、彼は中世日本につき上述のポストを書いてくれた。その履行につき、ここで繰り返し彼に感謝を申し上げたい。

わたしの評言は次のとおり。ただし英文での誤りはここで改変する。

BMへ。

あなたのレビューに感謝します。ここ数ヶ月、わたしは中世日本文化を調べなおしていました。今ではあなたの主な主張に賛成しています。

ここでは法についてコメントします。

法は良いかつ古いものでなければなりませんが、おそらく中世日本のアナークはそのどちらも知りませんでした。

一、古いものであるため、法は古い民族にそれを支え持つよう要求します。しかしながら、故郷から逃げだして中世日本の準アナルコ資本主義的な諸都市を構成していた人々は、個人であれ家族であれ、〔初めは〕出国移民でした。そして彼らはひとたびそれら諸都市に入るや新しい匿名的な諸共同体を結成したので、紛争を減らすほど古い文化はなかったかもしれません。〔現代日本へ続く村落の多くは中世末期の十五世紀頃にようやく発生した。〕

二、良いものであるため、法は自然的でなければなりません。しかしながら、それら中世諸都市が享受した最強で最も正統な法、仏陀法と神明法は自然的ではなく呪術的でした。どんな手段であれそれら諸都市が寺社として取得したものは、想定の上では仏陀=神の所持品であり、高貴な人々がその神格の呪術的復讐を恐れたせいで、部外者に対してすべて合法的でした。

そして、どうやら個人で法を支え持ち、かくて個人が法を分権化する感覚は、弱かったか無かったようです。自治体的ながら非民族的で、呪術的な法――西洋とは程遠い。東の日は出でましたが、おそらく単なる偶然でした。そして速く没します。

わたしは両者の類似性について誤解していました。きっとキーフレーズは「真の基盤がないということでの皮相的」です。知るとは原因を通して知ることでした。あるいは基盤を通して。

わたしの現在の意見では、残念ながら、仏教と音節文字のモンゴロイド――言い換えれば、ワンイズム(ピーター・ジョーンズが定義するとおりのそれ)と本質的非識字のもっとネオテニーな人種――には、高いIQと無国家状態の資格が同様に満たされても、カトリック・キリスト教とアルファベット〔ギリシア〕哲学のゲルマン白人より、自由は相対的に難しくありました。リバタリアンは自由の人種的かつ文化的な基盤を必要とします。

我々の文化について、あなたの西洋の視座からのポストを読めて満足です。

なお:同じ記事でWoody Barrett February 6, 2018 at 10:27 AMがおそらく言及している「支那の将来は英語である」(The Future of Chinese Is English)も面白いが、わたしがここで触れている日本の言語文化とはWilliam C. Hannas, “Script and Cognition: The Impact of Orthography on Western and Eastern Patterns of Thought,” Pol Reader #2のことである。それはさておき……。

彼は正しい。日本における保守主義は、基盤なき保守主義である。保守すべき基盤とは中世ヨーロッパのであり、それは日本にはない。バイオニック・モスキートは先のコメントに次のとおり返信する。訳文は敬体・直訳で。

わたしはあなたのここのコメントに心から感謝します。

わたしは一面ではそれにより悲しんでいると言わねばなりません。あなたはこの基盤的伝統がない、この伝統的、東洋的な、日本文化からの人です――リバタリアン社会への基盤なき文化で、リバタリアン社会への移動を求めてきました。

西洋での多くの人々は、あなたがあなたの社会で欠いているこの基盤を持ち合わせていながら、この基盤を自由にとって無価値であるかのように扱っています――なお悪いことに、自由にとって破壊的でさえある、と。

皮肉な。

日本に限って言っても……ああ、やはり悲しいね、一面では。日本人自由保守主義者は自由の保守すべき基盤を外人に求めなければならない。従属的と呼べ。

当たり前ながら、先のBMの返信は――意識的にであれ無意識にであれ――ホッペの議論に沿っていると思われる。彼の「現実主義リバタリアニズム」いわく[5]

この灯火において、右派リバタリアンとして、私が私の子供たちと生徒たちに最初に言うことはもちろんこうだ。つねに他人の私有財産権を尊重しろ、侵害するな、そして国家を敵だと認識しろ、実に私有財産テーゼの反定立そのものと認識しろ。しかしそこで終わりにはしない。いったんあなたがこの要件を満たせば「何だってまかり通る」のだとは私は言わない(し、黙って仄めかしもしない)。これこそまさに「薄い」リバタリアンが言っていそうなことだ! 私はほとんどの「薄派」リバタリアンが少なくとも暗にそうであるような文化相対主義者ではない。代わりに、私は(最低でも)次のとおり言い加えよう。なんであれ、自らを幸せにするものになれ、そして幸せにすることをせよ、ただし、あなたが世界分業の統合的部分であるかぎり、あなたの存在と福利は他人の継続的存在に決定的に依存しており、わけても、白人異性愛男性の支配的な社会、彼らの家父長的家庭構造、および彼らの有産的または貴族的な生活習慣と品行に依存していることを、つねに覚えておけ。ゆえに、よしんばあなたがこのどこにも加わりたくなくても、それにもかかわらず、あなたがこの標準的な「西洋的」社会組織モデルの受益者であることを認識しろ、ゆえに、あなた自身のために、それを蝕むようなことはせず、むしろ、尊敬され保護される何かとしてのそれの支えとなれ。

そして「被害者」の長いリストについて私が言うことは、あなた自身の事をせよ、あなた自身の人生を生きろ、ただし、あなたがそれを、他人の私有財産権を侵害せず、平和的になすかぎり、である。あなたが国際分業に統合されるかぎり、あなたは誰にも賠償を負わないし、誰もあなたに賠償を負わない。あなたが「加害者」だと思っている者とのあなたの共存は相互に有益である。しかし、「加害者」はあなたなしで生きて事をなすことができるだろう一方で、よしんばもっと低い生活水準であってさえ、逆は真ならず、と覚えておけ。「加害者」の消滅はあなた自身の存在そのものを危うくするだろう。ゆえに、よしんばあなたが白人男性文化に差し出される例を自分のモデルにしたくなくても、あらゆる代替的文化が現在の生活水準に維持されうるのはこのモデルの継続的存在のおかげでしかないことと、世界的に効果的な主導文化〔ライトクルトゥール〕としての「西洋」モデルが消滅することをもって、あなたの仲間の「被害者」は、全員ではなくとも多くが危険に晒されるだろうことは、承知しておけ。

これはあなたが白人男性優勢世界たる「西洋」に無批判になるべきだということを意味しない。結局、このモデルにもっとも緊密に従うこれらの社会にさえ、それ自体の国内財産所有者に対する侵害だけではなく外人に対する侵害という非難すべき侵略行為に責任を負うさまざまな国家がある。しかしあなたが住むところであれ他のどこであれ、国家を「人民」と混同してはならない。あなたの尊敬に値し、そしてあなたを受益者にするものとは、「西洋」国家ではなく、全体主義的社会支配に向かって疾走するまさに彼ら「自身」の国家支配者によってますます激しい攻撃を加えられている、西洋「人民」の「伝統的」(正常、標準的など)な生活様式と品行なのである。

日本人リバタリアンは他人事を決め込むかもしれない。我々は犠牲者学者ではないからこれは厳密には我々に対する叱責ではない、と。しかし、欧米での日系人の政治的意志決定様式を脇に於いても、ホッペの教訓は日本人が日本で二重に従うべき何かである。一方では我々の犠牲者学的「加害者」の身分において、他方では我々の同「被害者」の身分において。――すなわち、一方では我々の「被害者」(特定アジア人その他ブラジル人とフィリピン人など/異常性愛者/女性)に対して、他方では我々の「加害者」(白人異性愛男性)に対して。わたしは次のとおり言い換えたい。

一方では、わたしたち日本人自身の事をせよ、日本人自身の人生を生きろ、ただし、日本人がそれを、他人の私有財産権を侵害せず、平和的になすかぎり。……しかし、西洋人は日本人なしで生きて事をなすことができるだろう一方で、よしんばもっと低い生活水準であってさえ、逆は真ならず、と覚えておけ。西洋人の消滅は日本人自身の存在そのものを危うくするだろう。

他方では、あなたがた特定アジア人自身の事をせよ、特定アジア人自身の人生を生きろ、ただし、特定アジア人がそれを、他人の私有財産権を侵害せず、平和的になすかぎり。特定アジア人が国際分業に統合されるかぎり、特定アジア人は日本人にも賠償を負わないし、日本人も特定アジア人に賠償を負わない。特定アジア人が「加害者」と思っている日本人との特定アジア人の共存は相互に有益である。しかし、西洋と西洋従属的日本人は特定アジア人なしで生きて事をなすことができるだろう一方で、――特定アジア人の大小中華・易姓革命・儒教の文化においては――よしんばもっと低い生活水準であってさえ、逆は真ならず、と覚えておけ。ゆえに、よしんばあなたが日本文化に差し出される例を自分のモデルにしたくなくても、東洋的に効果的な主導文化〔ライトクルトゥール〕としての「日本」モデルが消滅することをもって、あなたの仲間の「被害者」は、全員ではなくとも多くが危険に晒されるだろうことは、承知しておけ。(……もちろん、支那が日本を超えて極東の覇権国になることは十分にありうるが、それは昔ながらの東洋的専制を免れまい。)

この助言は従えるように思われる。日欧は似ているからだ。

近代の欧化の始まりから、日本自由主義(田口卯吉『日本開花小史』と福沢諭吉『文明論之概略』)は日本文化での権力と権威の分類のような、(皮相的ながらの)ヨーロッパとの類似に気づいてきた。戦後は二度のネオ自由主義(吉田と小泉)とネオ国民主義(桜井)が起こった。どこまでも無基盤で皮相的ながら、日本は欧米に似ていたし、似せることができた、はずだ。

かたわら、――中世に関してとはいえ――ルーロックウェル・コムは我々を嘲ける[6]

中世日本

ヨーロッパに何か似てるとでも?

おいおい。何も似ていないなら、我々がヨーロッパを追うことは望めないだろう。問題は似てなさではなく基づかなさであろう。

日本の無基盤性についてのわたしの仮説だが、過少でも過剰でもないネオテニーは白人の特質であった。白人の最適ネオテニーはギリシア哲学とカトリック教会に結実した。知能淘汰は高緯度一帯に作用したが、結局、日本人はローカル・マキシムな進化を免れなかった。日欧の同じ高い知能と大きい地理的な障害が両者を同じ時期に台頭させたが、日本はヨーロッパの基盤には基づいていなかった。日本文化はその他大勢であった。

しかしながら、すべてのその他大勢文化は平等であるように創造されてはいない。その他大勢の諸文化も、ヨーロッパの基盤たるゲルマン族ラテン語キリスト教にもっと似ているか似ていないかを比べることができる。もしも現代日本の文化が現代西欧のそれに似ており、かつ伊藤正敏が言うとおり、日本の「伝統文化といわれるものの大半は、中世寺社に起源を持つ」[7]ならば、我々はルーロックウェル・コムの嘲笑に反駁してもよろしかろう。基づかずとも、中世日本は中世ヨーロッパに何かが似ていた、と。

そしたら、わたしたちはロックウェルとホッペに支持を申し込んではどうだろうか。彼が「リバタリアニズムとオルタナ右翼―社会変化のためのリバタリアン戦略を求めて」でいわく[8](強調付加)、

したがって、現行の布置連関を考え合わせるに、リバタリアン戦略を促進することは、オルタナ右翼がよく認識しているとおり、何よりもまず初めに、この最も過酷に被害者化した人々の集団に合わせて彼らに取り組まねばなりません。子持ちの白人既婚キリスト教徒夫婦、とりわけ(税消費者ではなく)納税者階級に属する彼ら、そしてこの標準的形式に最も緊密に類似するかこの形式を熱望する万人こそ、リバタリアンなメッセージの最も受容的な聴衆として現実的に期待されることができます。(逆に最も少ない支持は、福祉に頼る黒人イスラム教徒シングル・マザーのような、法的に最も「保護された」集団から期待されなければなりません。

もしよろしければですが、(子持ちの?)白人(既婚?)キリスト教徒ルーさん、何かが類似するという資格において、日本人自由保守主義者があなたがたを支持いたしてもよろしいでしょうか?

もしも日本での自由保守主義がヨーロッパへの従属を意味するならば、ヨーロッパ人がヨーロッパ文化を擁護し防衛すべく戦っているように、日本人はヨーロッパ文化に従属的な日本文化を擁護し防衛すべく戦わなければならない。かく再定義された自由保守主義は、古代の支那専制の輸入から、中世の支那脱却と仏教隆盛(この仏教化のおかげで「自由」の語がアーリア的な、積極的共示を得た)へ、近世の仏教衰退と儒教強制まで、そして近代の脱亜入欧(この西欧化のおかげで再び「自由」の語がアーリア的ながら、もっと積極的な共示を得た)に至る、日本文化の最も自由主義的な要素を辿りなおし、拾い集め、守り抜く仕事である。そのとおり、日本のどこを探しても自由の基盤はない。しかしながら、ヨーロッパの自由の基盤に依存することで、必ずやそれらを生かすことができるだろう。

これはリバタリアンが没頭しがちな国家破壊的任務ではなく、創造的=保守的な事業である。国家とは管轄の領土的独占者であると定義される。独占は悪であるから、管轄を独占する法人、国家は廃止されなければならない。しかし、国家の外でも善対悪は続き、右対左は残る。悪い人がいた。左の人がいた。現実には、人間社会と人間心理は自ずとアナルコ資本主義に報いるようには創造されていなかった。それでは、なぜレッセフェール?

我々は右翼と左翼が平等に間違っていると信じる愚の骨頂を冒したり、右翼は国家社会主義者で擁護の余地なしという経済学的批判に終始したりする贅沢を振りかぶって叩き捨てるべきだ。我々のしかるべき議論は次のとおりであろう、たとえば:異常性愛と薬物乱用の規制を独占する国家の悪さもそうだが、むしろ異常性愛と薬物乱用を規制するために警察国家を廃止せよ。物質的福祉の保障を独占する国家の悪さもそうだが、むしろ地縁と血縁を強化するため、とりわけその単位たる家族とその全体たる国民の内集団忠誠を保障するために福祉国家を廃止せよ。要するに、右翼の理想は正しい。我々は右翼に内在的でなければならない。右派の論敵に先んじて右翼の理想を語れ、建設的に手段を述べよ。その手段に対して国家が有害だから国家を廃止するのである。日本人右翼は日本文化の中に理想を育まねばならず、日本の自由文化がいつどこで生まれ、どう受け継がれてきたのか、どう守られてきたのか説明できなければならない。

その自由は偶然的であり、基盤をもたない。それは無基盤な皮相性しかもたない――皮相性をもち、皮相的ながら存在する。それの存在擁護すべきである。実際、それに関わらない経済批判はとにかく関連性がないと看做されるだろう。身に覚えは?

しかしながら:建設的活動は自由保守の片面にすぎない。バイオニック・モスキートが言うとおり、日本文化の擁護の証拠を示すのはときに十分ではない。また他の可能性を否定するための証拠をも探りださなければならない。かくて、『脱亜論』が自由保守主義の関連性を取り戻す。日本の犠牲者学者(と彼らに学ぶ反日外人全員)が特定アジア人を憐れむことから分かるとおり、中華文化は日本文化がヨーロッパ文化から遠いよりもさらにヨーロッパ文化から遠い。日本がヨーロッパに劣るように、特定アジアは日本に劣る。ゆえに、「我れは心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり」。

日本での特ア謝絶に類比さるべき、現在の西洋で最も喫緊の課題はこれだ。「大量移民を止めろ[9]。これは日本でも同じであろう。

したがって最も重要なのは、特定アジア人(支韓鮮人)、とりわけ在日韓鮮人に対する闘争、物理的・知性的反撃であろう。在日特権を白日の下に晒せ。外国人参政権運動と辺野古闘争での在日比率を万人の前で暴け。平昌オリンピックで露呈する朝鮮の遺伝的問題を世に語り継げ。リバタリアン。そして、物理的除去(physical removal)[10]はもちろん、知性的にもKevin B. MacDonaldがユダヤ人に対して行ったように、我々は特定アジア人の、とりわけ「在日」の集団進化戦略を証明しなければならない。

そして、我々が国家を廃止すべき理由は、現代では、日本国家による日本人の税金での日本国への特定アジアからの増加中の労働者・観光客誘致と難民保護を即時全廃するため及び全不法滞在者を必要なら武力行使で強制送還するためである。少なくとも、これ自体に反対する真のリバタリアンは存在しないだろう。他の理由をこれより前面に押し出すリバタリアンは存在するが、彼らは考えなおすべきだ。(後述:これは間違っていた。これと同じぐらい喫緊の問題があった。改憲だ――社民主主義右派と革命的敗北主義者の内輪揉め。)

今のところ、日本のリバタリアンは――おそらく実権をもたないからとはいえ――差別を擁護することにかけて信頼できる。しかしながら、彼自身が人種を差別すること、差別の対象を特定することにかけては尻込みする。わたしは以前、「韓国が満足するまで謝罪しろ=スシ貢女を寄越せ」で韓国文化の脅威を述べ、「来たる朝鮮戦争と日本人リバタリアン県連邦主義」(「来たる」は「来たるべき」の誤り)で日本への両朝鮮人の強制統合を阻止するよう訴えた。こういうのは怖いか?

現実から逃げて純粋経済学上の無紛争地帯に閉じこもるのは容易い。あるいは、「終戦後は外務官僚や文化官僚の手によって……有害ではありえなくなった[11]――要するに、気安く擁護できるほど甘っちょろい――非基盤的伝統でも擁護するのもしかり。しかしそこに何がある? 甘っちょろく支那臭い尊皇リバタリアニズム? ペイガンが共産主義者[12]にお辞儀する……それはまあいい。しかし自由保守主義者として、中世・近代日本文化に照らして申しあげれば、それは自由への基盤ではなかったし、自由への脱亜にも導かなかったようだ。わたしの管見では、左翼の「天皇制」廃止に抗うことの消極的な正しさを超えれば、安易で、無知で、これみよがしな尊皇は「リバタリアンは保守主義者でなければならない」とはさほど関わりがないよう思われる。

[1] http://bionicmosquito.blogspot.jp/2018/02/medieval-japan.html

[2] Medieval Japan: Essays in Institutional History, edited by John W. Hall and‎ Jeffrey P. Mass.

[3] https://liberalismtranslation.wordpress.com/category/%e3%83%90%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%8b%e3%83%83%e3%82%af%e3%83%bb%e3%83%a2%e3%82%b9%e3%82%ad%e3%83%bc%e3%83%88/

[4] http://bionicmosquito.blogspot.jp/2018/01/dilly-dilly.html

[5] https://www.lewrockwell.com/2014/09/hans-hermann-hoppe/smack-down/

[6] https://www.lewrockwell.com/?d=2018-02-06

[7]

[8] https://misesuk.org/2017/10/20/libertarianism-and-the-alt-right-hoppe-speech-2017/

[9] https://misesuk.org/2017/10/20/libertarianism-and-the-alt-right-hoppe-speech-2017/

[10] Robert Taylor, Reactionary Liberty: The Libertarian Counter-Revolution.

[11] 三島由紀夫『文化防衛論』35~36ページ、強調ママ。

[12] http://blog.goo.ne.jp/bb-danwa

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